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3.11 東日本大震災の時の中学生の1ヶ月の記録

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どうも、ブロガーのふーです。

東日本大震災から8年。

当時の私は翌日に卒業式を控えた中学3年生でした。衝撃的な体験で、今でも思い出すと涙が止まりません。

 

この記事も泣きながら書いています。

 

先日、ふと東日本大震災当時のことを思い出そうとした時、鮮明に思い出せない部分があることに気が付きました。

単純に忘れたのか、ショックが大きくと記憶していないのか、、、、よくわかりませんが、どうしても思い出せないことがありました。

 

あれほど恐怖を感じ、今でも泣きながら執筆をしているというのに、忘れていることが怖く、こうして記録として残していこうと思い執筆しています。。

8年前の出来事を思い出しながら書くので、もしかすると時系列がおかしくなっているかもしれません。

 

 

これから私がこの記事に書くことは、東日本大震災で私が体験したこと、感じたことをそのまま書き綴ります。

日記に近いものになると思います。

 

 

注意

津波や東日本大震災当時の写真や映像がでてきます。

被災された方にとってはつらい内容になるかもしれません。

苦手な方は読まないでください。

 

予想を遥かに超えた大地震

宮城県沖では過去に約30~40年周期で大地震が起きています。1978年の「宮城県沖地震」から33年が経過していました。

 

「もういつ大地震が来てもおかしくない」という時期でした。

 

私が小学生の頃、先生が「大地震がもうすぐ来る」と何度も教えられました。それほど地震に対して危機感を持ち、対策をしてきたはずでした。

 

地域ぐるみで訓練を行い、地震を体験できる起震車に乗ったり、アルファ米でお米を炊いてみたり、たくさんの訓練を繰り返してきました。

家には非常食や水が備えてあり、不安症な私は、自分で部屋に水と非常食をお小遣いから出して買っていました。

 

「これだけあれば大丈夫だろう」

そう思っていました。

 

 

3月11日「地震発生」

 当時の私は卒業を翌日に控えた中学3年生でした。

 

3月9日、東日本大震災の前震と言われるM7.3の地震が起きています。

その時は宮城県沖地震が来たのではと感じていましたが、電気も水道も通り、津波もほぼ無く、宮城県沖地震と断定はされていませんでした。

 

「まだ大地震は来ないだろう」と楽観視していました。

 

3月11日は、卒業式の通してのリハーサルを行っていました。朝から本番当日と同じ流れを最初から最後まで通して行い、昼食後(もしかすると昼前だったかも)に帰宅になりました。

 

帰りながら、友人との思い出を思い出したり、中学校時代の教科書をどうしようかと考えたり、高校ではちゃんとやっていけるかななどと考えていました。

 

自宅に帰り、昼飯を食べたのか覚えていませんが、2階の自室に戻った時に地震が起こりました。

 

2011年3月11日14時46分

この時間は今でも忘れません。

  

当時は導入さればかりで、誰でも知っている状態になった、緊急地震速報が最初の揺れとほぼ同時に鳴り、これが宮城県沖地震なのだと認識します。

 

 起震車では体験したレベルとは次元が全く違う、長く、大きい地震。

 

 

長く、重い地響き、突然突き上げるような地震に自分の机の下に隠れていることで精一杯。

 

目の前でたくさん落ちていくノートや教科書、

 

本棚から飛び出す辞書や小説

 

1階では母が「隠れてなさい!!」と叫ぶ声、それに返事をする私

 

怖く、うまく声が出なかったことを覚えています。

 

 

授業で聞いていた話や、親から聞かされていた話とは全く次元が違う地震に、とんでもないことが起きたことだけはわかりました。

 

 

すごく長い地震、、、、、

 

 

記録では3分程度だったとありますが、5分、、、それ以上にも感じました。

 

 

やっと終わったかと思い、まず最初にしたことはラジオをつけることでした。

 

 

頭の中は混乱していましたが、とにかく情報を集めなければと感じ、ちょうど目の前に落ちてきた、手のひらサイズのラジオを無意識に拾っていました。

 

ラジオを拾い、電源を入れ、放送局を合わせます。

 

放送局を合わせると、飛び込んできたのは津波の情報、、、、

 

何度も避難を促す声、、、

 

 

私は訓練をたくさん受けてきたのにもかかわらず、次に何をするべきかわからなくなり、どうすることも出来ませんでした。

 

母がお風呂に水を貯めるようにと言い、水を貯めたことを覚えています。いつもはキレイな水が出ている蛇口から、錆のような汚れも水と一緒にながれ出てきました。

 

そこから夜までは何をしていたのかうまく思い出せません。

 

夜は押入れからキャンプ用品を引っ張り出し、ガスコンロでお湯を沸かし、インスタントのスープを飲み、カンパンを食べ、ろうそくの火で一夜を過ごしました。

 

余震が何度も続き、不安で寝れませんでした。

 

3月の宮城県は寒く、服を着込み、いつもの布団にお客さん用の毛布を掛けて寝たのを覚えています。

 

 

 

3月12日「死」

翌日からは私は食料を探したりしていたと思います。

「本当なら卒業式に行っていたのに」なんてことは1ミリも考えていませんでした。

 

それよりも「まず生きること」が重要になっていました。

 

3月12日は雪が降っていました。

 

外に出ると、信号は止まり、道路が割れ、崖は崩れ、お店は閉店状態。

 

人通りも走る車も少なく、昨日までは普通に生活をしていた町とは思えない、閑散としていました。

 

とても変な気持ちになったのを覚えています。

 

 

 

そして福島第一原発のニュースが飛び込んできます。

 

 

福島第一原発が爆発した

 

 

実際は3月12日に1回目の爆発が起きていますが、知ったのは確か3月15日頃だったと思います。

社会の授業でチェルノブイリのことを学び、原爆などから放射線の恐ろしさを知っていた私は恐怖しかありませんでした。

 

福島第一原発から自宅は100km以上離れていますが、 

爆発→飛散→宮城にも被害!? 

そんな思考回路でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それをものすごく考えた瞬間でした。

 

 

夜になるとラジオでは、安否情報がずっと放送されていました。そのラジオで母は、実家がある陸前高田市の情報が無いかと、ずっと聞いていました。

 

親戚や旧友の誰とも連絡が取れず、私も祖父母の安否が心配でした。

 

 

3月◯日「お風呂と電気の復旧、地震の全貌を初めて見る」

正確な日を覚えていませんが、数日後には近くの銭湯が営業を再開し、お風呂に入りに行きました。お風呂に入っていない日数分、体を洗ったのを覚えています。

 

そしてほぼ同じ頃に電気が復旧しました。原子力発電所は停止しており、電力供給量が足りない状況で、節電を続けていました。

 

テレビが映り、津波の映像を見た時、「本当に現実なのか」と衝撃が大きく、見ているだけで自然と溢れてくる涙を必死にこらえていました。

 

そしてテレビの映像に映っていたのは母の実家がある、陸前高田市。

私にとっては夏休みになると毎年行き、遊び、笑いながら町を歩いた、たくさんの思い出が詰まった町です。

 

そんな町が黒い波に飲まれ、全てが流されていく様子は、到底受け入れられず、

 

こんな大波から祖父母は逃げ切れたのだろうか?

もし逃げ切れていなければ、、、、

それでも受け入れなければと、不安と恐怖が混じり混乱していました。

 

 

 

3月20日頃「陸前高田市へ」

自分が生きることで精一杯だった数日間が過ぎ、祖父母の情報が入ってきます。

 

 

 

祖母は生きている、しかし祖父は分からない

 

 

 

情報はそれだけでした。

 

 

 

 

そして震災から約10日後、Facebookを通じて新たな情報が飛び込んできます。

 

 

母の遠い親戚がどうやら、母が祖父母と連絡が取れないことを聞きつけ、人づてに情報を聞いてくれたようです。

人と人の繋がりや協力する力はすごいと感じました。

 

 

「祖父は無事です。足を怪我して◯◯病院にいます」

 

 

ちょうどその日、関西からの大量の支援物資が届きます。

 

食料、服、日用品、水、ガソリン、、、、、

 

その支援物資を分けて頂き、陸前高田市へ出発します。

 

沿岸は通行不可能なため、内陸から陸前高田市を目指しました。

 

私は車に乗ると必ずと言っていいほど寝るのですが、不安と緊張で寝ることができませんでした。

 

震災復興のため無料で高速道路を通過できました。道路に凹凸があったり、歪んでいたりしましたが、近くまで行くことができました。

 

陸前高田市に入り、次第に報道で見た光景が見えてきます。

 

 

がれきの山、海水に浸る土地、人を探す自衛隊員、感じたことのない異様な匂い。

道と言える道は無く、自衛隊のトラックが走り、普通自動車はほとんど走っていません。

 

とてつもない光景を目の当たりにし、車に乗っていた家族全員が無言でした。

トラックが走る音や重機の動く音、ヘリコプターの飛ぶ音、そして乗っている車が走る音だけが聞こえていました。

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(写真:東京消防庁)

 ぐちゃぐちゃになっている道路を進みながら、

「もしかすると、すぐとそこに人が埋まっているかもしれない」

そんなことを考えたりしてしまいました。

 

 

母の実家は高台にあり建物の骨格は残っていましたが、1階部分は浸水していました。

1階部分は泥と津波で流されてきた木材や建物の一部でぐちゃぐちゃになっていました。

 

 

夏に花火をした縁側も、小さい頃トウモロコシを抱えながら走った畑も、かくれんぼをした納屋も、背比べをした柱も、、、、、全てが流されていました。

 

 

 

母が泣いていました

 

 

 

 

 

私にとっては、夏休みの思い出がたくさん詰まった場所ですが、母にとっては生まれ育ち、人生の大半を過ごした場所です。

とても辛く、悲しかったんだと思います。

 

 

その後、祖父母と再会しました。

 

前年の夏に見た元気な姿は無く、やせ細り、普通に歩いていたのに、その時には杖をついていました。目に活力は無く、今思うと怯えていたような、そんな気がします。

 

 

 

津波がなにもかも全てを変えてしまった

 

 

そう感じた瞬間でした。

 

それから母は知り合いの安全の確認をしていきました。生きている人もいましたが、残念なことに亡くなられた方も、確認ができない方もいました。

 

もし私が母の立場だったらと思うと、辛すぎて受け入れられないと思います。

 

 

3月◯日「普通の生活が送れない」

陸前高田市には一泊し、帰ってきました。たしか車中泊をした気がします。

 

その後の生活は今とは全く違う、日常とかけ離れた生活でした。

スーパーは閉店状態で、食料の入手が困難でした。近所の人々と協力し食料を分けてもらったり、逆に分けたりしていました。

 

そして下水処理施設が津波や地震の被害を受けた影響で、トイレを控えてくださいといった案内も流れてきました。

  

ガソリンスタンドは常に長蛇の列、お風呂も数日おきに入り、水も節約していました。

 

当たり前の普段の生活を送ることがどれほど難しいか、経験を持って知ることができました。

  

 

3.30「卒業式」

予定から18日遅れで卒業式が行われました。

幸いなことに同級生の全員は無事でした。

 

卒業式の練習をしていたはずですが、立つタイミングや座るタイミングなど、みんな忘れてしまっていました。

 

本来は旅立ちの門出のお祝いの式のはずが、来賓は0人、保護者も少なく、寂しい式となりました。

 

 

 

ここまでが私の1ヶ月の記録です。

思い出せない部分や

 

 

 

ここからは私が伝えたいこと、皆さんに知ってほしいことを書いていきます。

 

 

東日本大震災を経験した私が伝えたいこと

ボランティアはすぐにいかないで欲しい

災害直後、現地は混乱し、ボランティアの受け入れ体制は整っていません。現地では生きることに必死です。

 

そして、最初の72時間は生存率が高いとされており、自衛隊や消防の救助がたくさん訪れます。

その最初の72時間に多くのボランティアが押し寄せると、自衛隊の車両の邪魔になったり、食料を求めて人々が殺到し、混乱を招くことにも繋がります。

 

ボランティアは非常にありがたいのですが、最初の3日間程度は、現地では受け入れができません。

 

ではいつ行けば良いのか?

一つの目安となるのは「ボランティアセンターが開設されているかどうか」です。

その時の状況にもよりますが、詳細は全国社会福祉協議会のホームページなどに掲載されるようになっています。

災害直後のボランティアに行く際は、必ずこうした情報をチェックしてから行くようにしてください。お願いします。

 

 

自宅に必ず備えを

東日本大震災を経験して感じたことは、「食料と水は何日分あっても良い」ということ。

災害の後は、食料の確保でたくさんの労力を使います。避難所の食料は限りがありますし、救援物資が届くのにも時間がかかります。

 

食料がちゃんとあるだけで、精神的なストレスを少し軽減できますし、避難所の食料にも余裕ができます。

 

私は一人暮らしですが、非常食は1週間分、水も10Lぐらいの備蓄をしています。

 

もし明日、大災害が起きたら、あなたの家には何日分の食料と水がありますか?

もし明日、大災害が起きたら、あなたは生き残れますか?

 

「これだけあれば大丈夫だろう」そんなことはありません。自宅に非常食が無いのであれば、今すぐに買いましょう。

災害時、すぐに自衛隊が助けに来るとはかぎりません。最低でも3日間は自分だけで生きていける備えが必要です。

 

 

被災地は1歩1歩前へ

東日本大震災の被災地は今、復興の真っ只中です。仮設住宅もようやくほぼ全ての解体が行われました。

 

生活を送ることはできますが、変わってしまった生活の根幹は元には戻っていません。陸前高田市では市街地の底上げの工事が進められ、街中をトラックが走っています。

海岸では巨大な堤防の工事のため昨年夏まで近づけませんでした。

学校の校庭は少し離れた場所に仮設にあり、小中学生はそこまで移動して部活動や授業を行っています。

 

そうした被災地がまだたくさんあります。8年が経ち、人々からは少し忘れかけてしまっている東日本大震災ですが、まだ復興が終わったとは言い難い状況です。

1歩1歩、復興は進んでいますが、全てが完了するまでに約20年の時間がかかるとも言われています。

 

そうした被災地がまだあることを忘れないでください。

 

そして、もしお金に余裕があるのなら被災地へふるさと納税をしてください。

日本では毎年のように大災害が起きています、昨年は北海道地震、西日本豪雨など、国の復興資金も1つの災害にずっと使い続けるわけにはいきません。

 

ある程度の期間が過ぎると、被災地は自力で復興をする必要があります。

しかし経済力も落ち、観光事業もなく、自治体が復興資金を捻出するのはかなり大変だと聞いています。

 

私は昨年、ふるさと納税で林檎ジュースを返礼品としてもらいました。

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「なんで林檎ジュース?」と思うかもしれませんが、この林檎ジュースは私が小さい頃、夏休みになると祖父母と一緒に飲んでいた思い出の詰まったジュースです。

この記事を書きながら飲んでいますが、スッキリとした林檎の風味と、炭酸のシュワシュワがすごく美味しいです。

 

はっきり言って普通に買ったほうが安いのかもしれませんが、それでも私が大好きな町の為になるならと思い、ふるさと納税をしました。

皆さんも、もし気が向いたら、被災地へふるさと納税をしてみてください。

 

 

 

 

 

 

あとがき

ここまでお読みいただきありがとうございます。

書くにあたって、できるだけリアルに、見たこと、感じたことをそのまま書こうと思い書きました。普段のブログとは全く違う、日記に近い内容で、情景や見えている風景をどう表現すべきかと悩みながら書いていました。

 

東日本大震災からもう8年ですが、震災を受け入れるまでには時間がかかり、しばらくは震災のことを思い出すことを避けていました。震災のニュースを見たりしますが、どうしても心の底から当時の状況がフラッシュバックし、涙が溢れてきます。

それは今でも変わりませんが、「震災を避け続けた先には何もないのでは?」、そして最初にも書いたように「忘れてしまうことが怖い」と感じている自分がいました。

 

避け続けてきた震災の記憶と向き合わなければ、先に進めないような気がしました。

8年という年月が流れ、ようやく自分の心にけじめをつけられたから、こうして記録を書こうと思ったのかもしれません。

 

この記事で少しでも被災地のことを気にかける人が増えてくれれば嬉しいです。